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【那覇校】箱根式車いす パラリンピックまで

沖縄ではそろそろ上着が要らなくなってきています。少し外に出て散歩したい、、、そんな時にいいお話を一つ。

 今回は「箱根式車椅子」について、その歴史と沿革をお伝えしたいと思います。

下の写真は何でしょう?

 そうです。車椅子です。

車椅子の中でも、これが国内最古の車椅子といわれる通称「箱根式車いす」です。

 この写真は、私が2018年に実際に箱根病院で撮影してきたものです。

この車椅子の話をする前にまずは、世界の車椅子の歴史から

 ドイツやスペインなどでは1500年~1600年の時代に、車椅子に似た椅子を使用している絵などが確認されていることから、この時代から車椅子のようなものが使われていたと思われます。

 16世紀のドイツ画家ルーカス・クラナッハの作品「若返りの泉」(1546)に、手押し一輪車に障害者を乗せて運ぶ風景が描かれています。

ルーカス・クラナッハ 「若返りの泉」

 16世紀後半にスペインを統治した王、フェリペ二世が、手押し式の車椅子に乗っていたという記録が残されており、痛風のために歩行が困難であったことから利用していたとされています。椅子の足先に小さな車輪がついていますが、前輪は方向が固定されているため、小回りは効かなかったのではないかと推察されます。

17世紀、ステファン・ファルファ(ステファン・ファーフラー)という人物が3輪の車椅子を開発したと言われています。

 後輪に大型車輪2つと、前輪はギア付きの車輪をひとつ使用し、前輪をクランク(往復運動を回転運動に、またはその逆に変える。手回しのハンドルにも使われている機械要素。)で駆動して自走できるものでした。

 当時ヨーロッパでは椅子は権威の象徴としての意味合いもあったようで、必需品というよりもどちらかと言えば贅沢品として扱われていたのではないかという説もあります。

日本の歴史

 日本では、中世に、歩行の困難な人が使用するための「土車」などと呼ばれる四輪の車が登場します。

 近代に入ると人力車メーカーが作ったと言われる「廻転自在輪(車)」の記録が残っており、これが国産車いすの第一号だとされています。しかし、この廻転自在車のどこで誰がつくったのかなどはわからないようです。

 車いすの量産が始まったのは、日露戦争の頃で、負傷した兵士のために、陸海軍病院や、廢兵院で導入されました。そして、1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、戦場で脊髄を損傷する兵士も増加したため、車いすの需要も高まっていきました。

そこで、記録に残っている日本最古の車椅子「箱根式車椅子」の登場です。

 1936年(昭和11年)、北島藤次郎商店(現:ケイアイ株式会社)は、北島商会という名で創業し、車椅子の製造を始めました。

 製造のきっかけとなったのが三井財閥のご子息が病気になり、入院先だった聖路加病院に英国から車椅子を輸入しましたが、大きくて体に合わなかったため、これを改造したことがきっかけと言われています。

 箱根式車いすの重量は30kg以上あり重く、大型であるがリクライニングができ、自分で漕ぐことも介助者に押してもらうことも可能でした。ただし、折り畳みはできず、ブレーキやハンドリム(手でこぐためのタイヤの外側についている輪)も付いていませんでした。

北島藤次郎商店と箱根療養所

 日本は日清、日露、第二次世界大戦で多くの傷痍軍人を生み、脊椎損傷者の多くは国立箱根療養所(現国立病院機構箱根病院)運ばれ、車いすを使用していました。

 箱根療養所は傷痍軍人箱根療養所(1940~1945)、国立箱根療養所(1945~1975)、国立療養所箱根病院(1975~2004)、国立病院機構箱根病院(2004~現在)と名称を変えながら現在に至ります。

 そこでは、多くの人が車椅子を必要としていましたが、当時の日本は物資不足で車椅子や義肢は一般には渡りませんでした。

 そんな状況を憂慮した箱根療養所庶務課長だった遠藤保喜さんという方が、戦後の混乱の中、疎開先の八王子で北島藤次郎を探し出して車椅子の製造を依頼しました。

一方、日本の車いす製作の草分けである北島藤次郎(きたじまとうじろう)氏は昭和7〜8年頃から車いすを作り始めていました。しかし、戦時中であったため昭和17(1942)年には自身も招集を受けました。

 復員後、当時の箱根療養所の庶務課長であった遠藤保喜氏の依頼により、昭和21(1946)年から八王子市にて北島藤次郎商店として再び車いすを製造しました。

 英国産の車椅子を改造したものを元に、何とか車椅子を完成させ、箱根療養所に納入しました。

 この車椅子はフレームが鉄、座席部分は北海道産の塩路という木材で作られ、座面や背面は籐で編んだものを使用しています。

 この車椅子が後に『箱根式車いす』と呼ばれ、製造者が明確な日本最古の車椅子と言われるようになりました。

 その後、籐の部分がフェルトに改良されたものが納入され、現存するもっとも古い車椅子と言われております。

戦場での脊髄損傷

 話は少し変わって、戦時中の病院の様子を少し、、、

 銃弾の飛び交う戦場では、脊髄に傷を負うことも珍しくありませんでした。先の大戦における脊髄損傷の主な原因は、銃弾を受けた傷(射創しゃそう)であり、背後から直接背骨に被弾するだけでなく、首や胸、脇などを貫通して脊髄に達する事例も多くみられました。

 通常、負傷した兵士は、傷の手当、治療を受け、退院(除隊)後には国を銃後で支える傷痍軍人として「再起奉公」するために陸海軍病院でリハビリと職業訓練に励みました。

 陸海軍病院での治療期間中、車いすに乗って病院内を移動していました。軍の病院で、 車いすは「患者運搬車」、「手動散歩車」などと呼ばれていました。これらの名称からは、負傷兵が車いすを日常生活に用いるためのものではなく、患者の歩行(運搬)を助けるものであったということが読み取れます。

 手動患者散歩車 『院友』(昭和 13 年第 25 号)

 一方で、脊髄損傷など重度の障害を負い、歩行などの日常動作が困難となった負傷兵は、病状が安定(症状固定)しても、社会復帰(再起奉公)がかなわず、病院から傷兵院(箱根療養所)へ移り、療養生活を送ることとなりました。

新京医学学会での写真(昭和 13 年)

車いす生活のはじまり

 箱根療養所は、入所者の車いす生活を支えるための様々な設備が整っていました。各自の個室はもちろん、談話室や敷地内の庭園といった屋外、さらには浴室の浴槽の目の前までも車いすでの移動が可能でした。

スロープのある居住空間

 妻たちの活躍、子どもたちとの記憶 箱根療養所で戦傷病者の生活を支えていたのは、その妻や家族でした。互いを支えあう療養所全体がひとつの家族だという戦傷病者もいました。

 療養所での車いす生活は、戦中・戦後を通して医療関係者による専門的な療養ケアだけでなく、家族の介護と支援がなければ成り立たないものでした。そうした中で入所者は、竹細工製作などの作業に打ち込み、家族同士の結束も深めながら、戦後は傷痍軍人会の活動やパラリンピック出場に向けて意欲的に取り組んでいきました。

病床からフィールドへ ~スポーツに取り組んだ戦傷病者の軌跡~

 日本開催に向けて東京でパラリンピックの開催が正式に決定されると、出場選手である脊髄損傷者を集める必要が出てきます。脊髄損傷者を受け入れている施設から多くの選手が集められ、特に箱根療養所からは日本代表選手 53 名のうち 19 名もの選手が出場することとなりました。

パラリンピックに向けたフェンシングの練習
パラリンピックに向けた アーチェリーの練習

 1964 年に行われた東京パラリンピックは、第 1 部国際大会の国際ストーク・マンデビル 競技大会と第 2 部の国内大会に分かれて開催されました。

※開催期間 昭和39(1964)年11月8日~11月12日 (第1部)11 月13日・14日(第2部)

  第 1 部では脊髄損傷で車椅子を使用する選手、第 2 部では車椅子を除いた身体障害者(肢体不自由者・視覚障害者・ 聴覚障害者)の選手が競い合いました。

 その模様を撮影した動画「PARALYMPIC TOKYO 1964」は厚生省・国立箱根療養所(当時)が企画・製作した作品です。1964 年東京パラリンピックのカラー記録映画で現在確認されているのはこの作品しかないそうです。

カラー記録映画「PARALYMPIC TOKYO 1964」開会式
カラー記録映画「PARALYMPIC TOKYO 1964」アーチェリー

車椅子スポーツの振興

 東京パラリンピック 後の国立箱根療養所では、脊髄損傷者によるスポーツ発展と医学的

管理を確立するために、車椅子スポーツ大会と同時に医学研究会を開催してきました。国立

別府病院をはじめ、様々な関係機関の脊髄損傷者が数多く参加しました。

第 1 回車椅子スポーツ医学研究会 基調講演の様子
第 1 回車椅子スポーツ医学研究会 スポーツ大会の様子(バスケットボール)

 箱根式車いすを原点とした日本の車いすは、1964(昭和39)年、東京パラリンピックを契機に各種の研究、改良が行われ、大きく進化を遂げてきた。今ではさまざまな種類、材質の異なるもの等が作られ、生活用具として、また、スポーツ用具としても不可欠なものとなっています。

 今回、箱根式車椅子を改めて調べてみて、車椅子一つとっても、たくさんの先人たちが対象の方のQOL(Quority of Life;生活の質)をあげるため、よりよく生きるために尽力してきたことがよくわかりました。

 リハビリテーションで大切なのは、その人自体の身体機能を向上させることももちろんですが、変えることができない場合はその環境を変えることでQOL向上をすることがいくらでもできます。そこを考える努力をすることが理学療法士、作業療法士の大切な役割だと感じています。ぜひ、みなさんもその人の可能性をあきらめないセラピストになってみませんか?

 琉球リハでお待ちしています。

<< 参考 >>

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年9月号 高橋義信 新潟医療福祉大学非常勤講師

https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n350/n350001.html

ケイアイ株式会社

https://order-ki.co.jp/history/

国立病院機構箱根病院

https://hakone.hosp.go.jp/about/index.html

日本リハビリテーション工学協会

https://www.resja.or.jp/index.html

WHILL(ウィル)株式会社

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